僕はむかし、日本語も英語もほとんどまったく話せない人のセラピーをしていたことがあって、日本語どころか英語も通じないのなら、まったくコミュニケーションできないのではないかと思ったら、これが不思議なことに通じ合えたのです。
相手の言っていることや、気持ちが手に取るようにわかるし、こちらの思いもはっきりと通じるのです。もう、びっくりするぐらいに相互に通じ合えて、もちろん、セラピーもうまくいったのですが、これはほんとうに貴重な経験でした。
海外旅行とかの、ある意味、決まりきったやりとりではなくて、セラピーのような、日常会話よりもはるかにつっこんだ個人的で複雑なコミュニケーションでさえ、言語を超えて通じ合えてしまうものなのです。
それなのに、同じ日本語を話していても、まったく通じ合えないときもあります。あちらの言っていることもわからないし、こちらの思いも一向に伝わらない。
これはどういうことかというと、やっぱり、言語ではなくて、「お互いにわかり合いたいという『思い』が、コミュニケーションを成立させる」ということなのです。
日本語も英語もコミュニケーションの手段として使えないからこそ、セラピストもクライアントも、お互いをわかりたいという思いがより強くなって、そして通らないはずのコミュニケーションが通るという奇跡が起こる。そういうことなんじゃないかと僕は思うんです。
だから、自分の言いたいことをぶつけたいだけだったり、自分の主張を押しつけたいだけだったりすると、「心を通じ合わせたい」という大前提がないから、同じ言葉を話していてもコミュニケーションが成立しないのです。
これを、「そんなこと当たり前じゃないか」と笑う人がいるかもしれません。
でも、カンタンで当たり前なことなら、すぐ実践もできるはずです。「当たり前でカンタンだから頭ではわかるけれど、実践はできない」というのであれば、それはやっぱり頭でもわかっていなかった、ということではないでしょうか。