2009年1月アーカイブ

自己嫌悪

「新しく仕事を企画するにあたり、ぜひ石井さんのアドバイスがほしい」とか、「これから本を書くので、心得とかを聞かせてください」とか、「こんどセミナーをやるので、いろいろ教えてください」とか、言われる。

そういうことはとってもよくあるのに、そんなとき、僕は、いつも同じ失敗をしてしまう。

身を削って得てきた気づきやノウハウを、自分としては、惜しげもなく、話す。こういうときはこうしたほうがいいんだとか、ここはやっぱりこういう考え方が求められるんだとか、みんなはこんなことを求めているんじゃないかとか、僕はこういうことをやって失敗したり成功したりしてきたんだとか、そんなことを夢中になって話す。

ひとしきり話し終わる。火照った顔で、呼吸を整える。

そのころになると、相手はようやく、「たいへんためになるお話をしていただいてありがとうございます。で、実は今日は、お願いがあって――」と、本当の用件を出してくる。クリアフォルダかなんかにはさんだ、書類を出してくる。「石井さんのブログとかメルマガとかで、これを紹介してくれないか」と。

なんだ。

そういうことだったのか。

だったら、最初からそういってくれればよかったんだ。最初から「紹介してください」と言ってくれれば、気持ちよくそうしてあげたんだ。アドバイスをくださいだなんて言うから、バカみたいに、ほんとうにバカみたいに、夢中になって話しちゃったじゃないか。

相手は、熱心に聴いているふりをしながら、「早く話をやめてくれないかあ。本題に入りたいんだけど」なんて、思ってたんだろう。何かお願いするときの礼儀だと思って、嫌な顔をしないように、ずっとがまんして頷いていたんだろう。悪いことしたな。

みっともないことだった。求められてもいないのに、いい気になってひとり夢中になって語ってしまった。

僕ごときのけちなブログやメルマガで紹介してもらうだなんてことよりも、僕の生身の知識や経験やノウハウのほうが、ずっとずっと価値があるはずだと、やっぱりそう思えるけれど、それもきっと、僕の傲慢なのだということも分かるから、よけいに切ない。

......と、いつも自己嫌悪に陥ってしまう。

でも、また別の誰かに「新しく仕事をはじめるので、ぜひ石井さんのアドバイスをください」なんて言われたら、やっぱり夢中になって話してしまうんだろう。

そして、自己嫌悪に陥りながらも、求められてもいないのに熱くなって語ってしまった自分を、抱きしめるようにうなだれて帰るのだろう。

それでいい。そんな僕でいい。

泣きたいほどみっともない思いに傷ついても、僕だけは、死ぬまで僕の味方だから。

お酒とホンネ

僕はもう何年も前から一切お酒を飲まなくなりましたが、楽しいお酒の席は嫌いではありません。

でも、「石井さんはお酒を飲まないからホンネで語り合えない」と言われることがあります。とくに仕事の関係などですと、お酒が入っていないとなかなか語れないこともある、ということらしいのです。

でも、お酒のせいにしないとホンネが言えない関係だなんて、ちょっと情けない気がします。

逆に、言えないはずのホンネを、お酒を飲んだくらいのことでポロっとこぼしてしまうだなんていうのも、それもまたずいぶん安っぽいことだと思うのです。

ホンネを言うべきときにはリスクを負ってでも言うし、言うべきでないときにはぐっと腹に納める。ただ、それだけのことであって、お酒とは何の関係もないことです。

褒めない

京都のMさんに教えてもらった、法隆寺金堂などの復興を果たした最後の宮大工、西岡常一さんの本、『木のいのち木のこころ』を最近、読んでいます。

実に味わい深い言葉の宝庫です。とくに弟子の教育に関するお話には、はっと気づかされることばかり。たとえば――


 学校と違って、百点を取ったら偉いというのとは違いますのや、仕事は。百点を取るのが当たり前なんです。それと、学校の先生と生徒みたいな関係とも違いますな。百点を取らせるために先生が頑張るということはないんです。
 褒めて励ますというのはあるでしょうが、褒めておだてて仕事を覚えてもらわなならないことなんて何もないんです。嫌なら覚えんでもいいんです。仕事を覚えるのは義務教育やないんです。途中で自分はだめやなと思うて辞めていく人はいます。だめやなと思うた時点で、もうあかんのです。その代わり辞めずに、覚えが悪くても覚えようという者にはじっくりつきあいます。だがこのときも、褒めたり、おだてたりはしません。

(西岡常一ほか『木のいのち木のこころ<天・地・人>』より)


まさにPM的指導者の姿ですね。自分の仕事に誇りをもっている指導者なら、きっとみんな多かれ少なかれそうするはずだと思うのです。なかなか現実には、難しいところがあるのは分かっていますが、やっぱり、僕も、こういう気持ちでいたい。

自分にとって都合のいい弟子や部下にするために褒めたりおだてたりして仕事をさせるのではなくて、あくまでもその人の主体性を大切にする。これがPMです。いいですか? これが僕の言っているPMなんです。

主体性がなければ、仕事にプライドなどもてません。だから、どんな仕事も職人的なプライドをもって向き合うべきだと信じるなら、部下や弟子の主体性も大切にしてあげるべきです。そう信じるからこそ、新しく入ってくる人には、ぶら下がって、教えてもらったり、なにかしてもらうのを待っているんじゃなくって、自分から求めていく主体性とか責任感がほしいと、僕は思うのです。

話がそれましたが......、これは、何度も読みたい、とてもいい本です。まだお読みでない方、とくに部下や社員を導く立場の方に、おすすめします。

チープ

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昔のアメリカのペーパーバックの、あのチープな感じが大好きなのです。わくわくするのです。画像は、"Nightmare Alley" です。カーニバルの見世物で、トリックを使いながら観客の心を読むメンタリストの物語。古くは映画になり、いまはアメコミにもなっています。

欧米のコールドリーダーの間では、もう絶対に読むべき小説として有名ですし、かのミルトン・エリクソンも愛読し、弟子たちに勧めていたそうです。しかし、なぜか日本ではあまり話題にのぼることが少ないですね。

メンタリストといえば、アメリカのCBSテレビで、ちょっと前から"The Mentalist" という連ドラをやっています。メンタリストがコールドリーディングなどを駆使しながら犯人を追い詰めるというドラマです。これはですね~、「もう、ん~、先を越された!」って感じです。まさに僕が書きたかったストーリーだったのだけれど、こういう企画を出しても、どこにも相手にされなかったのです!

いずれ日本でも放送されることと思いますので、チェックしてみてください。

誠意

ちゃんと書かれていることも読めない人に、行間が読めるはずもない。

目に見えるところにも気づけない人に、心が読めるはずがない。

能力というよりも、それは、誠意の問題だ。

むかし、永六輔さんがラジオで

「『私、ママさんバレーをやっているんです』なんていう人がいます。自分たちのことを『ママさん』だなんて『さん』をつけて言うのは、これはおかしいことですね」

というようなことをおっしゃっていまして、僕も、「そうだよなあ」と思っていました。

街には、「町の時計屋さん」とか「こだわりのかばん屋さん」とか「はんこ屋さんなんとか」などという店がたくさんあります。親しみを表現したいのだろうけれど、自分の店を当たり前のように「さんづけ」にしている看板を見るたびに、僕は永六輔さんのあの言葉を思い出してしまうのです。

最近の若い人たちは、自分の親のことを、「わたしのお母さんは料理が上手なんです」とか、「僕のお父さんはおもしろい人で」とか、仕事の会話の中ですら、「さん」づけにして言う人が多いようです。

これは若い人だけかと思ったら、けっこう年齢が高くて知的で通っている有名人がテレビで、「僕の奥さんが」などと言っているのを聞いて、びっくりしました。

どうも、僕としては気持ちが悪いのです。

でも、自分のことを「カリスマ・セラピスト」と称している僕は、きっと、もっともっとヘンに思われているのでしょうけれど、やっぱりちょっとそれとは違うことのような気がします。

自分を棚に上げるわけではないですが、「カリスマ・セラピスト」は、いわば確信犯ですが、「ママさん」とか「お父さん」「奥さん」には、なにか無邪気で悪気がなくて、それだけに気持ちが悪い気がしてしまうのです。

まあ、どうでもいいような瑣末なこだわりではありますが。

素直さ

能力も経験もないなら、せめて「素直」になればいい。そうすれば、経験や能力のある人が、お金にかえられないアドバイスやサポートをくれるものです。

だから、何か事をはじめるにあたっていちばん大切なのは、能力や経験よりも、「素直さ」だと僕は思います。

人が、思わずアドバイスしてあげたくなるような、そんな素直さの魅力をもった人は、どんな状況にあっても成長していけるものです。

でも、能力や経験のない人ほど、素直になれない。素直になることが、なにか負けたことのような気がして悔しいらしいのです。

だから、皮肉なことに、能力や経験の豊富な人にほど、かえって素直な人が多い。

「でも、素直になりたいのに、それができないんだよ!」という人がいる。もうすでに、その言葉自体が素直じゃない。

素直になることが必要だと思ったら、今日は昨日よりも1ミリでも素直になれるように努力すればいい。それだけのことです。

それが素直ということです。

「素直さ」は、もって生まれた性格ではなく、自ら獲得すべき能力です。常に磨き続けるべき能力です。


しかし、気をつけなくてはいけないことは、素直であるということは、妄信的であることとはまったく違うということです。このあたりは、ぜひ、『かぼ』を読み返してください。50~51ページに、「素直さ」に関するくだりがあります。

BeとDoの関係

「自分にはBeはあるけれどもDoがない」ということを言う人がいるが、これはまず論理的におかしい。

発生的に言えば、どんなDo(テクニック、方法論)も、もともとは誰かのBe(在り方)の実践経験から生まれたものであるはずで、とつぜんDoだけがぽこんと自然発生するはずがない。だから、卵が先か鶏が先かという話になれば、Doを生み出したのはBeである。

だから、おのずとDoを生み出さないのであれば、そのBeはほんもののBeではなかった、ということである。

そのBeが、ただ雰囲気だけ、気分だけ、ノリだけのものであったなら、それは一時的なリフレッシュメントであって、何かがそこから生まれてくるということはない。

ほんもののBeからは、湧き上がるように、突き上げるように、エッジの利いたオリジナリティあるDoがあふれ出てくるものなのだ。

多くの人が勘違いをしているが、DoとBeは、対極の関係ではない。実際には、BeがDoを内包するという関係だ。つまり、Beは産むもので、Doは産み出されたものだ。

DoとBeについては、拙著『カリスマ 人を動かす12の方法』(自分で言うのも憚られますが、これは、もっともっと売れていい本だと思っています)を参照ください。とくに103~109ページを熟読玩味されたし。

「逆」にヒントあり!

仕事や恋愛がうまくいってたり、夢や目標を実現できたりする人と、そうでない人がいます。

でも、しょせんはみんな同じ人間なんだから、能力やチャンスや頭のよしあしにそんなに違いがあるわけはない。

僕は、ずっとずっと昔からそう思っていて、「それじゃあ、違いはどこにあるのだろうか?」というのが、自分の仕事を通じてずっと問い続けてきたことなんです。

それで、一般的に言われるのが「うまくいく人といかない人は、考え方が違う」ということ。もちろん、僕も、ずっとそうだと思っていました。

でも、もし考え方の問題だけだとすると、ちょっと解せないところもあった。

だって、うまくいかない人ほど、たくさん自己啓発本を読んだり、高額セミナーに参加したりしている、という、この笑えない事実をどう説明できるのだろう?

もし、考え方がちゃんとできればハッピーになれるんだったら、夢を実現できるんだったら、こういう人たちほど、うまくいっているはずじゃないだろうか?

それが疑問だったのです。

頭のよしあしじゃないはずです。よっぽどの天才なら別だろうけれど、さっきもいったとおり、人間の頭の程度なんてそんなに変わるもんじゃない。

それで、ここ最近、気づいたことで、「おおっ!」と自分でも感動したことがあります。

うまくいかない人は、実は、うまくいく人と同じ考え方をしているんです。ところが、どこで違いが出るかというと、「順序が逆になっている」んです。

考え方そのものは正しいのだけれど、順序が逆なんです。

どういうふうに逆かというと、これはブログでカンタンに説明できるものではないのだけれど、すごく馬鹿馬鹿しい例でたとえると、うまくいく人は、「(下着の)パンツをはいてから、ズボンをはく」けれど、うまくいかない人は、「ズボンをはいてから、パンツをはこうとする」のです。結果、はからずもえらく滑稽な姿になってしまうのです。

本人としては、「教えてもらったとおりにズボンとパンツをはいたのに、どうしてうまくいかないんだ」と気分を害する。でも、うまくいく人から見れば、「なんでズボンとパンツをはくことがそんなに難しいんだろう?」と不思議に思える。

それで、僕のセラピーやセミナーでの経験をいろいろと振り返ってまとめてみると、まったくこの「理論」が裏づけられるなあと思って、驚いたのです。

僕はまず自分自身で試してみてから人に話す主義なので、僕自身の現在の人生を考えて、うまくいかない部分を改めてそういう角度から見てみました。すると、「あっ! 逆になってた!」と気づけて、軌道修正ができたりする。これはけっこうシンプルだけれどもパワフルだ、と感動して。

「新年早々にけっこう凄い発見!」と思って、自画自賛で感動していますが(笑)、もう少し整理して体系立ててから、近いうちに『月刊』の中ででもお話ししたいと思います。

全体

友達でもない。恋人でもない。仕事のつきあいでもない。

でも、キミは、その総和以上のものを内包している。

「友達」と言ったら、キミでなくなる。
「恋人」と定義したら、キミでなくなる。
「仕事のつきあい」と思ったら、キミでなくなる。

キミは、僕にとって、何かの「役割」ではない。

キミはキミという全体であり、その世界の中に、僕はやすらぐ。

あけましておめでとうございます!

今年は、カウントダウンの唱和も、クラッカーの破裂音もなく、ひとり部屋に瞑目し、静かに新年を迎えました。除夜の鐘が遠くから響いてくるのに耳を澄ましたのは、何年ぶりでしょうか。

当たり前ではありますが、時間は、区切りなく連綿と流れていきます。

ただそれだけのことですが、それがとてもすごいことのような気がしています。

今年も、どうぞよろしくお願いいたします。